現状をざっとご説明
ご無沙汰していました。眠れず徹夜明けの朝の更新です。このブログを開設したのは確か中学を卒業する直前でしたかね。すると放置期間はおよそ二年半! 確か記事も結局自己紹介だけで終わっていたような……ちらりと見えたタイトルすら恥ずかしくて読み返せていませんが、そんな気がします。
えー、現状としましては、まず、広域型通信制高校の三年生です。単位まわりの制度はおそらく一般的に想起される通信制と同じもしくは近いのですが、登校は週五日、なんちゃって全日制、でも留年基準はゆるめ、といった感じの高校です。この時点で詳しい方ならおおよそ察しがつくかもしれません。
出席不足で内申点が足りなかったこと、不登校が続くなら普通の高校ではどのみち卒業できないということを鑑みての選択です。
高校に入学した当初は中学のまじめな校風もあり「まともなレールを歩くこと」、明け透けに言えば全日制公立高校にこだわっていたため、高校名は大きなコンプレックスでした。しかし、結局現在もいわゆる五月雨登校が続いているので、この選択は私にとってはベターだったのではないでしょうか。
現状抱えている大きな問題はスポンサーとしての親について、それから家庭内の不和についてです。家庭環境については後で書きます。
高校なのですが、普段通っている方の「専修学校」つまりサポート校と、籍を置いている「高等学校」にそれぞれ学費を払っているので、やはり公立に比べると相当のお金がかかっています。
母親はたびたび請求のハガキを私に見せ、「学校行きなさいよ、これだけのお金がかかっているよ。あんたが行くなら惜しくないお金だけど、行ってないならドブに捨てているようなもの」というようなことを言います。
私自身、家でがっつり勉強できる気質ではなく、学校に行かなければどんどん遅れていくということは自覚しているのですが、それが難しいんです。
甘えかもしれません。実際父親にはそう思われているらしく、学校に行けなくなると会話のない日がずうっと続きます。向こうが不機嫌になり、私はそれに怯えて何も言えなくなってしまうのです。それでもまた会話を始めるのはいつも私からです。挨拶くらいしなさいと母が私を宥めるからです。
この父親というのがまたややこしい人です。同一世帯の私たちを養うために不規則な生活をして働いてくれています。「何人が俺にぶら下がっているのか」と頭を抱えているのを見たことがあります。忙しさのために、身体が明らかに悪くても病院に行く暇すらないと言っていました。
私は、わずかなバイト代やお年玉などを除けば彼の稼いでくれたお金で構成されている人間です。衣食住、教育費は当然、吹奏楽部にいたころは楽器を買ってもらい、本や漫画を買い、今も買ってもらったスマホでこの文章を書いていて、彼が契約したWiFiにつないでアップロードします。感謝しています。
が、彼はそれらを「してやっている」と考えている節があるようなのです。それはそうだと思いますが、それを盾にして自分への文句を一切認めずにキレます。
キレるきっかけは些細でありさまざま、いまだによくわかりません。醤油皿が共有なのって(衛生的に)汚くない? お茶、毎回誰かに頼まないで自分で入れてきたら? そういった指摘、またはテレビを静かに見たいのに、私の野次とか、あるいは私と弟との口論がうるさかった、などが多いです。
確かに私も喋るのが下手なので、口調、言葉選びが悪かったのかもしれません。ですが問題はキレ方です。
彼は不機嫌をギリギリまで溜め込み、一度爆発すると、ものをあちらこちらに投げつけたり、ドアの開け閉めや足音などをわかりやすく荒くします。テレビの音量を大幅に上げます。たとえ二十時を回っていてもです。話は通じません。
上記はまだましな方で、酷いと壁を殴って穴を開けたり、テレビのリモコン、テレビそのものや扇風機を壊したり、食卓の食べ物をひっくり返したり、カーテンをレールから引きちぎったり、ゴミ箱がひっくり返っていたり、自分の身体の方が傷ついているのにものを殴り続けたり、ひたすら机の角に頭を打ち付けながら何かうめいていたり……イヤホンをつけて、睡眠導入剤で無理やりに寝て、翌朝自室を出ると、泥棒でもこんなにかき回さないというくらいになっています。
でも誰も泣きません。きっと慣れてしまっているからです。
正気に戻った父が背中を小さくして掃除しているのを見て一瞬許しそうになり、やはり許せずにいると、私以外の家族はさっさと切り替えて父と談笑し、父のいないところで、そうできない私を諌めます。このときの孤独感ったらありません。
こういったときに彼が開けた壁の穴、割りかけてガムテープで補強してあるガラスなどの痕跡が家のいろいろな場所にあります。これらはすぐ家の風景に馴染み、ときには笑い話にさえされます。
改めて文字にするとおぞましいですね……。これが年に二、三度ほど起こるのが我が家です。
……ええと、ここまで淡々と書いているように思われるかもしれませんが、私の心臓は今どくどくと早く鳴っています。フリック入力する親指が震えています。
それくらい怖い記憶だけど、言葉を書くことだけは昔から苦手ではなかったので、なんとか文章を組み立てています。
自分でも事務的な文章だなあと思いながら書いているんですが、知識からなる理性は無事でも、体験が元となる心の根っこの部分が無事じゃなさそうです。
ともかく、おかげさまで私たち兄弟は歌謡曲が苦手ですし、それ以上にご近所に迷惑で、恥ずかしくて、テレビを壊そうか、警察に通報してしまおうか、何度も迷いました。しかし実際には一度もやったことがありません。幼少期からの刷り込みで、父には敵わないと思ってしまっているからです。
もう私より細身で、筋肉が萎んでいてもです。
直接的な暴力こそ受けたことがないものの、怒ったときの父は絶対で、従わなければ自分はこの家にいられない、ずっとそう思っていました。
ベタですが「産んでくれなんて頼んでいないのに!」と母を傷つけてしまった反抗期を経て、ネットに触れるようになってから、他の家庭の「父親」はどうやらうちの父とは違うような気がするぞ? と、ようやく気づきました。
最近は特にひどく、他の要因もありますが、そろそろ外部の支援を受けることも考えなければと思っています。
ただ、長々と書いておいてなんですが、これは私の主観です。父親からしたら私は不出来な娘なのかもしれないし、私が怖さのあまりに出来事を盛って記憶しているかもしれない。
いや、私は私がそこまで不出来な人間だとは思っていませんし、彼の行動は到底許せるものではありませんが、これは私の記憶と気持ちを羅列した文章、それ以上でも以下でもないですよ、とだけお伝えします。
同じような、弟についての文章をまた書こうと思っています。 かしこ
もう先に書きたいことを書きたいように書きます!
1ヵ月ぶりに記事を書いています、なばすけです。不登校なので時間は有り余っていたはずなのですが、気が付いたらこんなに期間が空いてしまっていました。
正直、自己紹介の記事を先に書かなければと謎の強迫観念を抱いていたからというのが大きいです。
あとはこれまできっちりした文体で書いていたのが少ししんどかったので、常体に変えるか敬体のままでいくか延々と迷っていました。
ちなみに結論は「どっちでもいい」です。ここはインターネットでその上自分のブログなんだから、ある程度は好きに書いたらいいんじゃないかと思ったわけです。今後は少しフランクな文体になりますが怒らないでください(;´Д`) (顔文字を使うか否かもかなり迷いました)
改めて書くとどうでもいい内容ですが、そういうことを真剣に悩むのも仕方ないですかね、持って生まれた性格ですから……。
おそらくしょっちゅう失踪すると思います。下手すると1年くらい消えるときもある、かもしれません。基本的に計画性のかけらもないまま行動してしまうのでw
でもやめるときはちゃんとやめると言うつもりでいます、手段がある限りは…!
今日記事を書けたのは、一昨日はてなからメールが届いたからなんです。「なばすけさん、そろそろ次の記事を投稿してみませんか?」みたいな感じでした。自動送信だとは思いますが、背中を押してくれてありがとう、はてなさん。
ネタは思いついたときにタイトル案や要旨を書いたりしながらまとめているので、今あるだけでも50前後あります。とはいえ、せっかく用意されたお題があるのですから、一度それに沿って書いてみます。
今週のお題「表彰状」
……うーん、ひしひしと過去の自分にコンプレックスを感じるお題です。
私、今でこそテスト前なのに我関せずとこんなことしていますが、小学生のときはなかなかデキる奴だったんです。運動以外。
というより、塾に通っていないのにクラスで1番勉強ができる子でした。先生が「今回のテスト、100点は一人だけです!」なんて言うと、周りが真っ先に私の名前を挙げるくらい。ただし過去形です…。当時はプレッシャーに感じて嫌でしたが今思うと本当に贅沢な悩みですね。
それで芸術方面はさっぱりという訳でもなく、むしろここが私の一番得意なところです。作文や絵や作曲など、合わせると平均して年間に1、2枚くらい表彰状を頂いてました。改めて数字にするとインパクトがないですね。
…自虐風自慢に感じるかもしれませんがモーマンタイです。このお題ならきっと自慢してナンボです。
ここまで、もし周りにいたら近づきたくない人に認定されるくらい自慢しましたが、これは前フリです。私にはこのすごさを打ち消すくらいの短所があったのです。
それは先にも述べましたが「極度の運動音痴」です。これもクラスで1番ぐらい。もう笑うしかないですよ……。これは学校生活、特に小学校においては致命的な欠点です。
なぜなら、(私のいた)小学校では、休み時間に校庭でみんなあそびと銘打って鬼ごっこやドッジボールをやることが多いからです。走りが速い子は、それだけでヒーローでした。
同じように個々の技量がはっきりと出る絵や合唱よりずっと日常的なので、それだけ影響力も高く、運動ができる子は絵を描くことや合唱が苦手でもチャームポイントになって、逆だと暗く見られてしまうことが多々あるように感じます。
ついでに言っておくと、私は運動音痴であることに加えて見た目もよろしくないです。運動音痴だと身体つきで分かってしまう感じです。どちらの意味でなのかはあえて言いません。そしてコミュニケーション能力も決して高くはない。言いたいことをうまく言えなくて損をしたり、逆に人を傷つけてしまったりしていました。
こうなると向かうところはひとつ、いじめです。きっかけはよく分かりませんでしたが、6年生の1学期が終わる頃から卒業までクラスと学年の男子にいじめられていました。担任の先生は悪い人ではないながらもあまり頼りになる人ではなく、親に言うのもなんとなく惨めに思えて自分ひとりで耐えていました。
しかし当時は病欠以外で学校を休むことはありませんでしたし、なんなら卒業式はちゃんと悲しかったです。と言いつつ別れる中に悲しい友人はいなかったような気がします。
何故悲しかったのでしょう。たぶん雰囲気に流されたのか、卒業式は泣かないといけないという刷り込みがあったのだと思います。あーあー卒業式でー泣かないーとー 冷たいひとーと言ーわーれーそーうー…一体私はいくつなんだ。
で、多くのメンバーが同じ中学に上がるということで戦々恐々としながら新生活を始めたのですが、いじめは驚くほどあっさり終わりました。環境の変化とあとひとつ、女の子をあだ名で呼べるようになったおかげですね。
経験上、女子はあだ名で自分たちの仲の良さを確認しあっていることが多いと思います。私は小学生の頃、女子を苗字+さん付けでしか呼べなかったのですが、あだ名で呼ぶようになると以前とは見違えるくらい多くの子がフレンドリーに会話してくれるようになりました。
それまでふよふよとクラスで浮いている存在だったのに、頑張って、もしくは無理をして女子の社会に溶け込もうとしたのです。春休みに必死に練習し、予想以上の効果を得られて、調子に乗った私は明るいキャラを演じました。それもそこそこ上手くいってしまい、「普通の」中学生になれたように思っていました。
しかし別人を演じるなんて簡単にいくわけがなく、笑顔で大丈夫、大丈夫と言い続けた結果が現在の私です。学校社会に馴染めないのに無理をして、結果不登校になりました。
学校では努力や団結や反省を常に指導されるように感じますが、それを額面通りに受け取ってしまう人ほどしんどくなりやすいと思います。
本当はそうでない人が改善するべきところを注意されているのに、クラスや部活全体で言い渡されると、どうしても不器用で真面目な人ばかりが自分のこととして受け取って、自己評価を下げてしまうのではないでしょうか。
自己評価の低い人は、実際は自分が思っているよりもできていることが多いはずです。そして、慰めではなく、もし本当にできていなかったとしても、それを理解して反省できている時点で十二分というくらいです。
最後に、本物の表彰状を貰っていない人ほど、普段の自分を自分でほめてあげて下さい。目覚ましのスヌーズを使わずに起きられたとか(私はこれができません)、プッチンプリンを上手にプッチンできたとか、今日が何年何月何日で何曜日かちゃんと覚えてるとか、ごくごく小さなことでもいいんです。むしろそういう小さなことこそ、生きていることの結晶だと思います。
この記事も結構長いです、3000文字近くあります。これだけ長い上に拙い文章を最後まで読んで下さって、私はすごく嬉しいです。
これだけ長い記事を書いた私にも表彰状を、なんて。きっと誰かと被ってしまう締め方ですね。
ブログを始めるに至った経緯②
こんにちは、なばすけです。
この記事は続き物ですので、時間がありましたら、下記リンクよりお読み頂けると分かりやすいと思います。
時間がない方向けに前回のお話をざっくり説明すると、
・元々休みがちだったのが、1年ほど前、インフル罹患とその直後の学級閉鎖をきっかけに不登校になった
・理由を探したが分からなかった
・むしろ自責の念が浮かんでしんどかっただけなので、もっと早いうちに今の自分を受け入れてあげたかったなあ
というような内容です。
今回は、家族(主に父親)との関係、部活動についてのお話になります。
なんで学校に行けないの
自分で言うのもどうかと思いますが、私はどちらかといえば優等生の分類に入る生徒でした。毎学期委員を任されている真面目な子、責任感が強い子、それが友人や先生方からの評価でした。過去形なのが辛いですね。
両親もそれは知っていましたから、私が学校に行けなくなってひどく取り乱しました。他人事のような書き方ですが、あの頃は何もかもが真っ暗に見えていて、今は考えられないくらいネガティブだったので、本当に自分の記憶なのかよく分からないのです。
母親とは毎日のように話し合い諭されて怒られて、何度かは泣かれてしまいました。父親は普段あまり何も言いませんでしたが、機嫌が悪いときにお酒が入るとその分を一気に吐き出すかのごとく怒鳴られて嫌味を言われました。
母親は時々ヒステリックになるものの、人格否定まではしませんでした。しかし父親はかなり感情的に「怒る」人です。良いご身分だな、だとか、幸せだろう、だとか、半ば当てつけのように言われたことがあり、今もまだ強く覚えています。
言い返せない部分もあるゆえに非常に悔しかったですし、実際に部屋で過呼吸になるまで泣きました。一時は本気で憎く感じて、父親に対してそんな感情を持ってしまう自分までも憎かったです。
その後しばらくは、母親が泣くのも父親が怒鳴るのも全部私が学校に行っていないからなんだと自責し、不甲斐なさに情けなくなり泣く日々が続きました。
ここまで関係が悪くなった父親とどうやって和解したかというと、完全に日にち薬です。もう顔すら合わせたくないと思っても、彼は在宅で仕事をしているのでそうはいきません。ずっと過ごす家の中で気を張るのがしんどくなったので、表面上は数週間でどうにか修復しました。人を嫌いになることって意外とエネルギーを使うんですよね…。
表面上というのは、この1件で親に抱いていた幻想が消え、人間なんだなあと実感したからです。人格者であることを期待するのはやめました。生意気ながら、私自身は人格者のみが親になるべきだと考えているのですが、ややこしくなるためまたの機会に。
ただ、悪いことだけではなかったと思います。親が私の気持ちを分かってくれない、と悲しくなることも少なくありませんでしたが、ふと、私は親のことを分かっているのか?と思ったのです。考えてみれば、好きなアーティストも、芸能人も知らなかった。
流石に直接訊くことは気恥ずかしくてできなかったものの、母親とは時々2人で買い物やカラオケに行ったりするようになりました。父親とは……ニュースでやっている政治問題について話すようになりました笑
向こうがどう考えているかは分からないのですが、私としては良くも悪くも儒教的な上下関係が薄くなったような気がしています。
温かかった部活
私が普通に学校に行けていた間の楽しい思い出は、半分以上を部活動のことが占めています。今のところ、中学時代唯一の青春っぽい経験です。恋愛なんてなかったんだ……。
優しくて尊敬できる先輩方、気の合う同級生に恵まれ、元気で利発な後輩がいて、顧問の先生もそれなりに可愛がって下さいました。拘束時間は確かに長かったですが(部員以外からすると軍隊のように見えることもあったようです)、同じものを好きになったメンバーで一緒に高みを目指したことは忘れがたい経験です。
同級生が引退した後、顧問の先生とお話する機会がありました。聞けば、3年生になってからほとんど参加できていなかったにも関わらず、私を最後まで部員の1人に数えてくれていたそうで、本当に涙が出る思いがします。
部活に関するエピソードは色々あって、書き出すとキリがありません。そして身内のことなので、上手にぼかさないと1発でバレます笑
そのため、書きたいことは沢山あるのですが、機会があったらということにさせてください。
大分長くなってしまいました。次でやっと自己紹介の記事は最後になると思われます。次回の内容は、私が現在中学3年生ということで受験のお話になります。
この記事が難産だったので、期間が少し空くかもしれませんがご容赦ください。ではまた、遠くないうちに。
ブログを始めるに至った経緯①
昨晩開設したこのブログですが、正直あの記事では私がどんな人間で、どんな記事を書いていきたいのかよく分からないのではないでしょうか笑
せっかくきちんと始めたのですから、自己紹介もきちんとしておこうと思います。
大した経歴はないですが、身バレを防ぎたいため大筋が変わらない程度にフェイクを交えつつ書いていきます。話を盛ったりはせず、極力そのままを表しますのでご安心(というと語弊があるかもしれませんが)ください。
不登校、まさか自分がなるなんて
私は現状教室に通えていない、いわゆる不登校の中学3年生です。
今から丁度1年と少しほど前に部活動の朝練を休みがちになり、次第に学校を腹痛や頭痛で休むことが増えました。仮病ではありません。休んだら休んだで学校に行けなかった自分を強く意識してしまい、症状は酷くなる一方です。それでもほとんどの日は教室で勉強したり部活動をしていたのですが、切っ掛けはインフルエンザに罹ったことでした。
インフルエンザに罹ると出席停止となり、1週間程度学校に通うことができません。五月雨登校の状態だった私は内心嬉しさ半分、勉強の進度に対する不安半分で過ごしました。長かったような気もしますし、一瞬で終わってしまったような気もします。
その期間が終わると、今度はタイミング悪くクラス自体が学級閉鎖になってしまったんですね。罪悪感を持ちつつも、色々な方面からのプレッシャーから解放され休んだ2週間ほどはとても気が楽でした。
何をしていたのかというと、1日中ずーーーっと寝ていました。それはもう長時間寝ていました。それまでの私はまさしく部活動漬けで、平日は朝練・放課後練、土日は5時間程度の練習があり毎日くたくたでしたから、その揺り戻しでしょうか。
加えて「私は病気で休んでいるのだから、楽しいことをしてはいけない」という強迫観念に近い気持ちもあり、快復しても漫画を読んだりゲームをしたりしませんでしたし、かといって勉強するような気力もなかったのです。
つまるところ、冬休み気分がまだ抜けきらないまま、それと同じくらいの期間を正当な口実の上で休むことができてしまったのでした。
しかし大抵の人なら、学級閉鎖の期間が終われば嫌々でも通常の学校生活に戻ると思います。私にはそれが出来なかった。
理由は誰にも分からなかった
ここがこのお話のミソで、インフルエンザに罹ったことは「切っ掛け」なんですね。普通なら戻れたはずなのです。それが戻れなかったのには、私の性格もあるでしょうが、学校・部活動に行くことがしんどい、怖いと感じる「理由」の積み重ねがあったはずです。
早く解決しようと何が理由なのか必死に考えましたが、当時はひどく憔悴しており全く分かりませんでしたし、自分で自分を責める考えばかり浮かんで苦しむ始末でした。今でこそぼんやりとは分かってきたような気もしますが、1月現在教室復帰できていない事実を見るに、悪い言い方をすればただの空回りだったのかなあと。
何か明確な理由があればまだ対処のしようもあったのでしょうが、そうではなかった。思うに理由と言い訳って紙一重で、不登校になった自分の尊厳を守るために、正当化するために必死になっていたんでしょう。結果として沢山の時間を無駄にしましたし、苦しんだだけで、某漫画の言葉を借りるなら「何の成果も!得られませんでした!!」という訳です。
自責、自省、自戒、自愛
世間的に見れば確かに、不登校というのはあまり良いイメージを持たれるものではないと思います。ましてや自分がそうなったなんて、当初は非常に受け入れがたかったですし、今もまだ完全には受け入れられていません。しかし、自分を正当化しようとして苦しんでいたのでは本末転倒です。
向上心があることと今の自分が嫌いなこと、また、向上心がないことと今の自分を愛してあげられることは、似ているようで全く別物です。一朝一夕で変わったのではありませんが、自分の好きなところも見えるようになってからは視野が少し広がった気がしています。
すみません、記事が大分長くなりそうな予感がしたため一旦区切ります。夜も更けてきましたので、もう寝ないといけません。
…友人たちはきっと今も受験勉強しているのでしょう、こんな記事を書いていながらまた劣等感が疼きます……。
次回の内容は家族との関係、部活動のお話になると思います。ではまた、遠くない日に。
ご挨拶
ひとまず、現在は一切投稿のない私のご挨拶を読んでくださってありがとうございます。もしくは未来の私が書いた記事から飛んでくださっているのでしょうか。
どちらにしてもありがとうございます。
ブログを始めた動機は個人的な気持ちの整理のため、また現実の生活で物事を進めるモチベーション向上のため、と簡潔に言うと自分のためなのですが、結果として読者の方にも楽しんで頂けるものにしていければと考えております。
…とは言っても、何をどう書けばよいのかがさっぱり……
何しろブログをやろう、そう思い立った30分後にこの文章を書いていますので……。そして一週間後には消息不明かもしれません。
しかし始めたからには一定の期間は続けてみたいなあ、と。
精神衛生上、強迫観念は持たないほうがよいとはいえ、やってもやらなくてもよい「ネットに文章をアップロードする」という行動を自分に課し、実行できれば、少しずつ自信や文章力がつくかもしれない、なんて不確かな期待も持っています。そうでなければコンスタントに書いていけないです笑
ブログを通して素直な自分の気持ちを見つめてみて、過去に向き合って、現在を確認して、道を拓いていきたいと思っています。
端々に未熟さが溢れている私ですが、興味が湧いたら記事を読んでくださると嬉しいです。ではまた、遠くない日に。